メモ

そういえば市川真人が授業で宇野とこの前話したよといっており、宇野は未来を暗くではないけれど希望的には見ていなかったらしい(自分のとして)。それは最近宇野や東がある程度の数字を持っていないとな〜みたいな感じだかららしい。一方市川の師匠と彼が言っている渡部直己は大衆に受けるような作品は基本的に嫌っているようである(彼の普段の言動や誌上での発言から推測)。そこで彼らがなぜそういっているのか、を個人的に推測しながら整理すると、東は以前ブログ内で(ブログ内の発言が公共性をもっているかどうかという問題はここでは置いておいて彼自身の意見であると仮定する。)なぜ批評家になったかというと彼が学生の頃に見た柄谷行人浅田彰などに代表される批評家達が単純にとてもかっこよかったからだと言っていた。彼らの時代は批評というか文学界隈全般に力があったのだと予測される(実際に生きてないしその頃を生きていた知り合いもいないので推測。てか超適当文なのでご了承ください。)。それに憧れていたのだよ東は結局。だから今の時代ではあまり力(集合体としてもあまり威力は強くなく、というかいわゆる大衆にはほとんど見向きもされない、学生でも知らない人たくさんであろう思想という分野)を持ってないからある程度の数字を稼がないものには不信感ではないが威力を認めていないわけである。つまり時代のいつからか思想というものがスノビズムに取り込まれてしまっていて、東のかっこいいと感じていたものはスノビズムからは対極にある王道としての思想なのであり、現在はスノビズムに取り込まれてしまっているからそもそも人がいない。いやいないわけではないのだアンガジュマンを誰もしないのだ。みんな隠れているのである。それをなんとか東は打破したいのではないかななどと思っている。最近やたらと政治がらみ多いとか勝手に思ってますがね。ところで一方渡部直己というのは文学至上主義といっていいほど文学を押してきます(もちろん思想もですが)なぜかというと彼には大衆がバカにしか見えないようなのだ。彼のこの大衆像というのはプラトンが民主政治というものを否定したときの大衆像と一緒に思う。もちろん東も大衆のバカどもを相手にしているつもりはないだろうけど。で、渡部の大好きなヌーヴォー・ロマンなんてわけわかりやすい本ではないですよね。理解するには、やっぱある程度の比喩を鋭く見抜く力や読解、論理力などは必要でしょう。つまりある程度頭良くないといけないんです。だから渡部はそういった本を支持するし、そういった文学好きな学生みたいのも支持するんですよ。で、文学をあんなゴリ押しできるわけ。それに彼自身いつかというかしょっちゅう文学に感動したりしているのでしょうね(うらやま)。もちろん文学や思想には論理がふんだんに用いられてますよね(文学はそこはあいまいですが。)。そこも渡部が押し捲るポイントなんでしょうね。とまあそんなどうでもいいことを語尾代わりまくりながら書いたけれど肝心の市川というと川上みえこと付き合って王様のブランチにも出て一番世俗に即して幸せになってますね。まあひとそれぞれってことで。超くだらない文なのによく最後まで書けたな。疲れた