人がある事柄を毛嫌っていたのに、何時の間にか興味津々になって、知識を得、言葉を使い、その世界内の自分を表現するのを見るのがスゴくヤダ。要はショボい時を知っちゃってるとアウトってことだな。そしてこれは自分にも言えて、気をつけなきゃいけない。つまり自分は何も核というか昔っから〜みたいのがないから何も語れない。そんなことは考えなくて良いのだろうけど、やっぱり人に見せるべきではないと思う。書いててよくわかんない。あまり知らない時を知ってる人に、
その後、俺知ってるよて顔は見せない方が良いというのが一番わかりやすい。俺わかってるしセンス良いよ、のオーラを出さない態度で常にいたい。周りの音楽好きな人とかも結局、ニルバーナやレディオヘッドが世界一だと思って他の音楽を馬鹿にしてる人とそういう点で、あまり変わっていない。自分としては音楽を道具にはしたくない。ライブで演奏する時は身体の一部として演奏したい。そして聴く時は食べ物と同じように聴きたい。なぜ、ナルシスティックな雰囲気とかが好きになれないかというと、侵入してくるからだ。主観的な感想を強制させようとしてくるから人は不快に感じるのではないかと思う。しかしそういうと人は一人で生きていかなきゃいけないというヘンテコな強迫観念に駆られそうだけど、信頼や愛情がそうさせずにすましてくれる。信頼や愛情というものは目に見えず態度や言動で表し、そこから判断しなければいけないから、難しい。難しいから人々の中で上手くいけない人もいるのだと思う。その点、体育会などの思考は宗教的だからシンプルな考え方が出来て、あまり困ったりしないのだろう。音楽を道具としてしまうのは、大変に侵入的で個人的に好きでないからしたくない。音楽は音楽だ。そこから得られる地平を共感し共有することができるかもしれないから、僕はサークルのブログに記事を書いたりする。僕がさし出す手は常に、無料ですからもし興味があったら、という意思で伸ばそうと思っている。その手を相手が共感した時だけ見えるようなステルス細工を出来るようになりたいと思っている。